2017年5月16日火曜日

みなが地に落ちた

May 15, 2017

5月15日、「ナクバの日」。1948年5月14日にイスラエルが独立を宣言し、パレスチナ人が占領地から強制移住を余儀なくされ、苦難を負うことになりました。それから70年近くがたちましたが、災厄は終わりをつげません。いままた、イスラエル政府の弾圧に抗議するパレスチナ人囚人たちの断固としたハンストが続くなか、連帯する人たちへのイスラエル政府の暴力的攻撃が続いています。

「ハーレツ」紙のいつも勇敢なジャーナリスト、アミラ・ハスさんの最近の記事(It's Crowded Down There.)を訳して、パレスチナの人たちへの私なりの応援にしたいと思います。(翻訳・文責=大竹秀子)



原文テキスト=アミラ・ハス

ハーレツ紙 2017510

ギラード・エルダン治安相は、またしても我々を驚かせてのけた。いつもよりさらに低劣なレベル(「放火キャンペーン」、「ベドウィンの村Umm al-Hiranでのテロ攻撃」)にまで身を落とし、さらには、自分と同様このトリックを楽しむ人たちすべてを道連れにしようとしている。そこには、自由を求めるパレスチナ人の闘いを一連のボクシング試合ででもあるかのように扱うイスラエル人があふれている。この試合では、ノックアウトで勝利を得ることができるのは、いつも我々だ。大ボラを吹いていられるときに、何の心配がいるだろう?

エルダンは自分の民衆を知っている。(パレスチナ人の)囚人ストライキは、イスラエル社会に浸透できないでいるし、パレスチナ人の囚人の、家族と電話で話したり(監視、傍受されながら)、ふつうに面会するといった権利への理解はこれっぽっちも生まれていない。

これまでもそうだったが、今回のハンストにより、大学の大物やカレッジの法学部教員が安楽な地位から立ち上がるという事態は起きていない。この連中に、イスラエルが行っている行政拘禁―軍法会議のまねごとすらせずに時間的制限を決めずに課す無差別の勾留—は非合法だということを思い起こさせてもいない。奮い立った社会学者や心理学者、精神分析家が、このストをつぶせば、イスラエルの他の抑圧行動と同じように、イスラエルの集団的性格、そして抑圧者個人ひとりひとりにどんなに影響を及ぶかと、声高に忠告することもない(いつもながらの左派のあやしげな連中は例外だが)。

イスラエルの歴史教師がこのストライキを活かし、身の周り、そして遠く離れた場所で、たとえそれが暴力や流血行為(それはいつでも抑圧者の血塗られた暴力に対するかよわい反応だ)を伴おうとも自由と独立のために闘うほかの人たちの苦闘について教えたとも思えない。「そうした形の闘いで彼らの大義がゆるぐことはなかった、たとえば、アルジェリアを見ろ」と。

だからこそ、この場で、もう一度、思い起こそう。監獄局の副局長イラン・マルカは、2009年のガザ攻撃の際、Givati 旅団を指揮し、民間人であるサムニ家の人たちでいっぱいの家に向けミサイルを発射するよう命じた人物だ。彼の部下である兵士たち自身が、この住民たちにあの家が安全だからそこに集まるようにと指示し、そこに歩いていかせたのだ。この攻撃だけで老人、女子供、父親、人生の一歩を踏み出したばかりの青年、21人が命を落とした。もっと多くの人たちが負傷し、残りも全員、トラウマを抱えて暮らしている。

エルダンと監獄局は、強力なストライキによってどんなにひどいパニックにおちいっているか見せつけようとしているが、そんなのは小細工だ。パレスチナ内部の深い亀裂を考えれば、確かに、ほとんど予測もつかなかったほどの強さだ。ストを行っている人たちに対してイスラエルはプロパガンダを武器に応戦したが、まったく効果をあげていない。ストライキは、たとえつかのまであろうとも、ひとびとをひとつにする要因になった。さらに海外でも、英国やスコットランド、イタリア、フランスで連帯キャンペーンの機会を提供した。

パレスチナ自治政府は、取返しがつかなくなる前に、「テロリストへの給与支払い停止」というロジックに封じ込めようとする試みからストを切り離さざるを得なかった。ストライキを組織したのはファタハのライバルだったにも拘わらず、イスマイル・ハイヤをはじめとするハマス指導者たちもハンストへの支援を表明したのだ。ストライキの動機に疑問を抱く人たちも、スト実行者たちの決意には驚かされた。たとえ、彼ら全員がこっそりと芋をひとくちかじったり、水の中にこさじ8分の1ほどの塩をいれたとしても、彼らがひもじい思いをし、監獄局の厳罰に意識的に身をさらしていることに違いはない。

たとえば、ある刑務所から別の刑務所への「移送」。そんな移送がおこなわれるごとに、囚人はハンストを行っていないときですら、肉体的・精神的拷問を味わう。ストライキを行うものは独房にいれられ、わずかばかりの個人的な持ち物をすべて取り上げられる。こうした、世界からのいつも以上の隔離もまた、人々を破壊しかねない。家族との面会の完全な取り消しはとりわけ苦痛だ。スト実行者には、高額の罰金(あがりはユダヤ国家の財源にまわされる)が課される。息子たちへの家族のおそろしいほどの心配はつのるばかりだ。

だからこそ、はっきりした頭で考えた末、こうした闘いを始めようという意思を目にして、社会が囚人たちをヒーローとみなし、このストライキを自由を渇望する人々のもうひとつの大切な政治的一歩と考えるのは当然だ。
(翻訳・文責=大竹秀子)

2017年1月13日金曜日

旅その2 リフタ 記憶を奪われた村 ―ナクバとは? 


時の政権が仕掛ける不都合な歴史を封印しようとする試み。国は、人の記憶を消すことができるのでしょうか? その問いに物言わぬ疑問符をつきつけているのが、リフタです。

エルサレムの街を北西に抜けてまもなくの場所に残る、破壊されたアラブ人の村の跡。ごつごつした石ころだらけの急な坂道の入り口に立つと山の斜面に点在する石造りの家の残骸が見渡せます。石で囲まれた平たい区画は、段々畑の跡。聖書の時代にまでさかのぼると村の歴史に亀裂がはいったのは、1947年末から1948年にかけてのことでした。

「ナクバ(大災厄)」とパレスチナ人(パレスチナ・アラブ人)が悲嘆を込めて呼び、多くのイスラエル人が「イスラエル独立戦争」と誇らしげに呼ぶ戦争、日本では「第1次中東戦争」と呼ばれるこの出来事が先祖から子孫へと受け継がれていくはずだった時の流れを停めたのです。